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三滝寺の3つの祭事と龍の卵

2012年2月15日 今日は三滝寺で3つの祭事がありました。
常楽会:午前9時から お釈迦さまが涅槃にはいられた日
    本堂に美しい涅槃図を荘厳して読経。
三鬼権現縁日 午前10時半頃だったと思います。
    三鬼堂にてお経がありました。
稲荷縁日 午前11時半 本坊2階でお経があげられました。
    庭園の中を通り六角堂上のお稲荷様にお参りしました。
ハスライン

私が三滝寺の本堂に到着したのは 常楽会が終わるころでした。
(゜.゜)?本堂に 靴がない?誰もいらっしゃらないようです。
せっかくの常楽会なのに、本堂にあがりろうそくと御線香をそなえました。
ちょうど、お経がおわったところでした。
涅槃図
招かれて・・・涅槃図の前に行きました。
お焼香を3回するように教わりました。
(^0_0^) 御住職様に説明していただきました。
メモをとっていないし、はじめてでしたので
リンクをつけておきますね。:解説
http://www.senjuji.or.jp/nehanzu/index.php
お釈迦様は、三十五歳でブッダガヤにて尼連禅河(にれんぜんが)のほとり、菩提樹の下で悟りを開いてから四十五年間、インド各地を行脚して仏法を説き広められました。
そして八十歳になって、持病の背中の痛みも思わしくなかった。生まれ故郷へ向かう途中の、波婆城(はばじょう)にて純陀という人(鍛冶工の子)が布施として差し上げた茸(きのこ)料理に中毒され、体調を崩され、拘尸那竭羅(クシナガラ)の跋提河(ばつだいが)のほとり、沙羅双樹(さらそうじゅ)のもとで入滅されました。

江戸時代後期の製作言われているそうです。

お釈迦さまのお姿は、仏教徒の理想の姿として描かれてきました。

涅槃図もまた、理想の死の在り方が示されています。
すべての煩悩が消滅して悟りを完成させた境地を指しているそうです。
涅槃図を読み解くことは自分自身の死の在り方を考えることでもあり、
死を見つめることは今を生きることを見つめ直すことでもあるそうです。

涅槃とは、「吹き消す」・「消滅する」という意味で、すべての煩悩が消滅して悟りを完成させる境地を指しているそうです。釈尊の入滅を「涅槃に入る」といいます。二月十五日の満月の日に入滅されたのだそうです。

お釈迦さんは阿難に命じて、二本の並らんだ沙羅双樹のあいだに、頭を北に向けて床を用意するように、「私は疲れた。横になりたい。」頭を北右脇を下にして、両足を重ねて静かに体を横たえられました。この時、悲しみのあまりなのでしょうか、沙羅双樹は時ならぬ花が開いたといわれています。
 頭を北に向けて寝ることは、地球上の磁場と血液の流れが一致することにより、
一番安定した安らぎを得る状態であると言われています。

日本では、沙羅双樹が生息しずらく、「夏椿」のことを沙羅双樹と呼んでいるそうです。
朝に咲いて、夜には花が落ちることから、「はかないもの」の代名詞とされています。
「沙羅双樹の花の色、盛者必衰(じょうしゃひつすい)の理(ことわり)をあらわす」
という『平家物語』の名文句は、この光景に依っているのだそうです。

お釈迦さまの産みの母:摩耶夫人は、お釈迦さまを生んで七日目に亡くなられ、とう利天という天におられましたが、阿那律尊者より入滅されたことを報告され、錦袋に起死回生の霊薬を持って天隆する際に沢山の鳥たちに邪魔され、沙羅双樹めがけて薬袋を投げ落としました。でも薬袋は沙羅双樹の枝に引っかかって、お釈迦様には届かなかったのだそうです。こうして摩耶夫人は阿那律尊者の先導でクシナガラへ雲に乗り下ったのが涅槃図に描かれています。
*阿那律尊者はお釈迦さまがお生まれになった時に泣かれたそうです。
お釈迦さまが悟られる時、お会いできないからなのだそうです。
阿那律尊者も産みの母:摩耶夫人も亡くなられた方です。

沙羅双樹の枝に錫杖と共に錦袋が掛かっている錦袋の中身の正体は、
お釈迦さんの仏鉢と錫杖を枝に掛けたとされているそうです。

お釈迦さまは、まわりの者たちに対して、自分の亡き後は
「ただ、自らをよりどころとし、真理をよりどころとせよ」とお説きになりました。

「自燈明・法燈明」と言い、「自分自身を頼り(燈明)としなさい。
私を頼りにするのではなく、私の説いた法を頼りとしなさい。」と説かれました。
本堂です
写真がボケてます。

観音様(中央)
お釈迦様(左)
不動明王様(右)
縁の行者様(左)
お地蔵様(右)
お大師様(中央)

(お大師様の梵字)
観音様を現す字

昔の三滝寺は、修行道場でした。

「私は、なんじらに告げよう。すべてのものは移り変わっていゆく

放逸(心が散漫になり修行に専心できないこと)なることなくして、

精進するがよい。これが、私の最後の言葉である。」


あらゆる存在・現象は無常であり、この世は移り変わるのが当然である

阿難が「何ゆえ河のほとりで入滅されるのですか」と尋ねると、

お釈迦様は「人はただ死ぬ覚悟が出来ていないゆえに迷うのだ。私がこの河のほとりで涅槃に入るのは、人間の命は水の流れのように少しも留まることなく、夜も昼も静止することなく縮まり失せてめくことを、この河の流れで知らせしめるためである」とおっしゃったそうです。

最後のお説法があるというので、たくさんの動物たちが集って来ました。
喧嘩したり、喰いつ喰われつしたりしているのですが、争うことなく、
みな一様に釈尊の死を悲しんでいます。

私が見た、三滝寺の涅槃図には猫の姿はありませんでした。
猫が描かれてる東福寺の涅槃図を描いた明兆(みょうちょう)は、赤い絵の具が足りなくて困っていました。すると一匹の猫が、明兆の袖を引っ張って、赤い土絵の具の在る谷に連れて行ってくれました。明兆は感激して、その猫の姿を涅槃図に描いたと言われます。東光寺の涅槃図にも猫が描かれているそうですよ。
(゜.゜)?なぜ猫が描かれていないのか?十二支の話につながります。
それとなく子供のころに身近にあり聞いたお話でした。

阿難尊者は、色白の美男子で、いつも釈尊の側近に仕えていました。
お釈迦さま1か月くらい前にが 「わたしはこれから涅槃に入る」 と言われたとき、
その意味がよくわからず、お引き留めしなかったそうです。
涅槃に入られてあとからそれを後悔し、歎き悲しんで気絶してしまったとか。

阿泥樓駄尊者が阿難に「大覚世尊、すでに涅槃に入られた」と告げると、
阿難は悲しみのあまり気を失い、地に倒れて死人のようになった。
長老阿泥樓駄は、清冷の水をもって阿難の顔に注ぎ、助け起こし言った。
「阿難よ、たてえ仏は涅槃されても、無上の法宝がある。仏弟子は精進して、
衆生を救い、如来の恩に報いようではないか」阿難は正気に戻ったそうです。

お釈迦様は涅槃まじかになって、阿難に「水を汲み来たれ」と言われ、
阿難が水を汲みに行くのですが河が濁り飲むことが出来ませんでした。
三度も言われ・・・三度目に行くと、不思議に水が澄みきっていて
お釈迦様にさし上げることが出来ました。今日の「末期の水」の起源です。
かめ


(^0_0^) 御住職のお話では、お釈迦様の亡くなる日も場所もすべて
決まっていたことだったそうです。だから、出されたキノコは弟子に
食べさせることなくおひとりで召しあがったそうですよ。

 たった一枚の涅槃図ですがその中に多くの教えが入っている。
昔の人は字が読めなかったので絵を残したようですね。

七福神ライン

この後、三鬼堂に行き お経を読みました。


(・・?旧暦って? 太陰太陽暦(天保壬寅暦)を一般に旧暦と呼ぶそうです。

太陰暦とは、月の満ち欠けが暦のベースとなっており、原則として、朔(新月)となる日をその月の一日(ついたち)として日付を数えます。ですから、三日月は3日、満月は15日(十五夜)といった具合に、日付と月の満ち欠けに対する呼び名が一致します。
 お釈迦さまが涅槃に入られたのは2月15日 満月の日でした。

月の満ち欠けを基準として1月の長さを決めていました。月の満ち欠けの周期は、多少変化しますが、平均して凡そ29.5日。このため当時の月の長さは、小の月が29日、大の月が30日で、小の月と大の月がほぼ交互にやってきます。何年かが経過すると、暦の月と季節が全く合わなくなって、日常の生活にも不都合なことが生じてしまいます。
このため約3年に1度、「閏月」を作り、1年13ヶ月となる年を設けました。
旧暦は月日は月の満ち欠け(太陰)から決め、季節は太陽から決める方式をとった
「太陰太陽暦」の一種なのです。

ライン


(^0_0^) 仏の顔も三度まで。
お釈迦様は「ピラヴァスツ」という国の王子として生まれました。
時が流れ・・・お釈迦様の国が隣の国「コーサラ」に滅ぼされようとしていたのです。
お釈迦様はこの事情を聞き、国に帰国することを決意します。

枯れたチーク樹(釈迦族の象徴的な木)の下に座っていたら、お釈迦の目の前を・・・
国を滅ぼしに出陣していたコーサラ王に出会ったのです。

コーサラ王はお釈迦様に一礼してこう言いました。
「何故枯れた木の下にいるのです?茂った木の下にいれば涼むではないですか?」

お釈迦様は「王よ 枯れ木でも親族の木々の下は涼しいものだ」と言いました。

コーラス王は昔からの言い伝えを思い出しました。
「僧になり仏法を勉強している人に出くわしたら撤退せよ」と・・・。
慌てて城に引き返し、再びピラヴァスツを滅ぼそうと出陣します。
すると?枯れ木の下にまたお釈迦様が座っているではありませんか。

出陣と撤退を三回繰り返した後、四度目に枯れ木の下を通ると?
お釈迦様の姿はありませんでした。仏教の考え方に「因果応報」があります。
過去の悪事が現在に返ってくるというもので、
お釈迦様はこの「因果応報」を受け入れたといわれています。

仏の顔も三度とは、お釈迦様が枯れ木の下にいた回数が三回だったのです。
お釈迦様でも自分の国が滅ぼされるのを止められなかったそうです。

稔ライン

竜ですお稲荷様の縁日 本坊2階でお経があげられました。京都の「伏見稲荷神社」より分けていただいたものだそうです。御本尊は東寺を建てる時に伏見の山の材木を提供してくださった方だそうです。
(^0_0^) 毎年 ゆで卵をお供えするそうです。
*龍は玉が好きだからなのでしょうかね?

空海が東寺および稲荷山と関わったのは、高野山開山のすぐ後のことで、
伝承で「稲荷神」は、高野開山伝承の狩場明神の姿によく似た「赤顔の老翁」、
稲を担ぎ二人の女と二人の子を連れているそうです。
 現在の伏見稲荷の五社形式の祭神に、本地仏を当て嵌めれば、宇迦之御魂大神が十一面観音、大宮賈大神が如意輪観音、佐田彦大神が千手観音、そして田中大神が不動明王、四大神が毘沙門天となるようです。
キツネに関係する「命婦社」命婦の本地は文殊菩薩とされていました。
稲荷社の「稲荷鎮座由来」。「龍頭太事」は、もともとの稲荷信仰を伝えていた
荷田氏のこととともにヘビの由来を語っていると言われています。
お稲荷様
真言密教では、荼枳尼天(ダキニテン)を「白晨狐王菩薩」と同じものとして「稲荷神」とするようです。
白い狐にまたがる剣と宝珠を持つ天女として表現しています。キツネと一体となった荼枳尼天は、東寺を中心とする真言宗によって世間に広められました。
インドのシヴァ神の妃・パールヴァティーの化身の一つで、カーリー女神(黒き女神)の従者だった「ダキニ」は、
むかし生きた人の肝や肉を食うヒンズーの魔神でした。
お釈迦様から生者の肉を食うことを禁止され、死肉だけを食べるよう命ぜられます。すると今度は一転して、半年前に人の死を予期するとか、ダキニに自分の肝を捧げる約束をすると、ダキニが願いを叶えてくれると言われるようになりました。加持祈祷を得意とする密教には、荼枳尼(ダキニ)が願いをかなえるということに由来する「荼枳尼天法」という術が存在し、真言密教にもあるそうです。

きつね
伏見稲荷のご真言「オン キリカク ソワカ」。

 (^◇^)108回唱えました。

そして お下がりのゆで卵と稲荷寿司を1個ずついただき、
二の滝のある庭園に入り階段をあがりお稲荷様にお参りさせていただきました。
 狐はお使いなのだそうですよ。

お庭の鯉に赤ちゃんが生まれていた。カワセミに狙われるそうです。


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